昭和46年07月21日 朝の御理解



 御理解 第99節
 「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」

 これは誰でも真があれば、人が助けられる。学問があるから、学問で人を助ける事は出来ん。お金があるから、お金で人を助ける事は出来ん。勿論ここで言う助かりというのは、真実の助かりですね。ですから学問は無くても金は無くても、人を助ける事が出来る、真さえあれば。と言う事はまずこれは、自分自身が助かると言う事。自分自身が助かる事さえ出来れば、自分自身が助かってさえおれば、人を助けれ事が出来る。勿論御神訓に、御神戒ですかね。
 「我が身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らん事」と言うのがあります。自分が助かった、また助かろうとしておるその姿勢。そこから生まれてくる信心の喜び。そこに、私は、止むにやまれん自分が、ああいう難儀な時に、ああいう助かりのおかげを頂いて、今日こうしておかげを受けておるという事がです。人の難儀をじっとして見ておられない。人の難儀を自分の難儀としてです行けれる。そういう心が、私は真だとこう思うんですね。真が無ければと仰るのです。
 だからここんところの助かると言うのは、もう信仰によって本当に助かる。ただ病気が治った、お金のお繰り合せを頂いたと言う様な意味での、私は助かりではなくてですね、今日はここん所からその本当の助かり。まぁここではなんとはなしに、無学の方が助かりよいまた助けよい。学問があったりすると助かりにくい、または助けにくい。という様な風に聞こえますです。確かにそういう向きもある事はありますね。自分が学問を致しますと。学問に限らないのですけれども、いうならばお金がありますと。
 もうそれで助かっておる様な気がするんですね、本当に助かっていないけれど。もうこの世は金で出来るごと思うて、この世は自分の頭いっちょで出来るように思う。成る程立身出世は出来ましょう。けれども立身出世と助かるという事は、違いますからね。ですから、本当の意味において、自分の心が助かり、その心の助かりにです、人間の幸せの条件と言った様な物が足ろうて来る。
 それが本当の意味に置いての助かりだと思います。ですからいうなら、学問があってもなかっても、言うならお金があってもなかっても、自分自身が助かる事が出来、人も助ける事が出来る。それはいわゆる、親切とでも申しましょうかね。親が子を思う切なる心という。我が身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らぬ事と。人の難儀人の身の苦難を、そのまま自分の苦難として、社会の難儀を自分の難儀とし、そこから助かってもらいたいという一念が燃えて来る。
 そういう心をここで私は真だと、真が無ければ人は助からんと仰る、その真とはそういう事だと思う。まぁ言うなら、助かりの本質とでも申しましょうかね。本当の意味において、本心の助かり。心が喜びに満ち溢れて来る。そういう助かりを得る為に、どういう信心を、させて頂いておかげを頂いたらよいか。昨日私ある方のお届けをさせて頂いた。まぁ大変な難儀な問題に直面しておられますけれども。案外落ち着いておられる。まぁ安心のおかげを頂いておられるのだと思うておりましたら。
 私共が子供の時に、ようあの傘をさして、行きがけに雨が降っとる、帰りに雨が降りやんどると。傘を持って帰るとをこう開いてからね、道をガラガラガラガラ回して、傘をこうもう持って傘を回してこう帰って来よった。もう傘がすぐ痛むですね。それで怒られますけれども、面白いから傘をこやってゴロゴロゴロゴロ。そう言う様な所を頂いた。次にはその傘を今度は肩にこう掛けた所が、ぱぁっと一塵の風が吹いて来た。
 そしたらその傘がね、こんな風にして肩げとるもんですから、ぱぁっとその雨傘ですね。特に雨傘は後ろの方へぱぁっとこう、ひっくり返ってしまうでしょう。傘の所がそして自分も、その風によろよろしよる。所謂傘は上向いてしまっておる。したら反対にこう開いてしまう訳ですね。傘が開くと言うても反対の方へ開いてしまう。そういう様な所を頂いて、本当にこういう程度の、自分がこんな問題が起こっておるのに、この様に安心しておれるというその安心と言うのは、本当なものではないなぁと私は思うた。
 傘というのはまぁ安心と教えて下さる。傘を持っておると言うことは、よし何時降っても、傘があるからと安心が出来る。降れば降るでまた傘があるから濡れんですむ。信心というものはね、そういう状態になる心を信心によって頂いていかにゃん。例えばこれのぎりぎりのその物はね、私はいわゆる、まぁ仏教でいう安心立命と言うのは、どういう深い意味があるか、まだあるんでしょうけれども、まぁ安心立命という言葉を使うならですね、あの「ままよ」という心だと思うですね。
 それは死んでもままよという事だと思うです。これならねひっくり返る事もなからなければ又は、自分の持っておるその安心を、持て遊ぶ様な事もない。だから中々ね、自分の信心の程度というものを極めて行く。またそういうおかげを頂かなければね、人は助かるもんじゃないと私は思うです。また助けられない。もうそれはそのまま力ですから。ままよという心、ままよとは死んでもままよの事ぞと。そういう心が自分の心の中に、段々はっきりと頂けてくる様になる。
 そこから生まれてくる歓喜、いわゆる喜びであります。成る程こういう心の状態にならせて頂きゃ、お金がなかろうが、または、学問がなかろうが、そう言う心で神様に願う。そう言う心で、神様におすがりをする。成る程、人が助かるほどしのおかげになるだろうと思われます。此の方は無学でもみな、おかげを受けておる。教祖の神様のお心の中にある、何時もそういういわゆる安心の心。いわゆる大安心の心。
 しかもその上にです此の方は人が助かる事さえ出来れば、と言うお心が教祖様の信心の、大元をなすものであると私は思う。中心をなしておった。自分自身の助かりと同時に、その心で此の方は人が助かる事さえ出来ればと、こういう心今日は親教会では、月次祭そして引き続いて、親先生の古希の祝いのお礼祭が奉仕されます。若先生がお祭りの奉仕をします。私共夫婦もお祝いにお参りさせて頂きたいと思っておりますが。
 そんな訳ですから、今日一時のご祈念の時に、一日の御理解が頂いとかなければなりませんから、先ほど控えに待たせて頂いておる時間に、それを書かせて頂いた。今日の御理解は人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理にあう信心をせねばならんと言う御理解。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理にあう信心をしなければならない。万物の霊長であるから、まず私共が万物の霊長としての自覚を、まず持つ事が先決問題です。私共は万物の霊長であるという、いわば自覚に立たなきゃいけません。
 いうなら人間であると言う自覚です。ですからその人間がただ人間の面被っとると言うだけの人間ではなくて、心からの人間にならなければならないという事。それを真の人とこう申します。真の人間を目指さなければならない。人間の面をかぶっておると言うだけの人間ではない。(ちょっと飛んでる)自覚に立つ。言わば霊長としての自覚に立つ。生まれる時から、私共はそういう霊長としての値打ちをつけられておる。ところが段々いわゆる、我情我欲ですね。
 我情我欲がその霊長としての値打ちを失ってしまう。霊長としてのいわば霊徳というか、霊光というか、その光が我情我欲で鈍ってしまう。終いにはなくなってしまう。そういう人間が世の中にどの位多い事か、言うなら人間の面をかぶっておるというだけ、人間の面をして人間の顔をかぶっておるというだけ。それこそ人面重心である。とりあいず自分が立身出世さえすりゃ良い。そのためには人を落とし入れてでも平気である。そう言う心にお互いが、変わってしまうという事をです神様は悲しまれると思う。
 だから信心とはです人間としての、本当の値打ちに気付かせて貰い、その値打ちをいよいよ発揮して行こうとする努力。そういう道を信心によって教えて下さってあるんだと思うのです。そこには万物を見て、道理に合う信心をせねばならんと教えてある。人間は万物の霊長であるから万物を見る。万物を見て道理にあう信心。ほんなら万物を見て道理に合う信心とは、どういうような事か。道理に合わない生き方をしておる者が、どのくらいあるか分からん。それは道理を心得ていないからである。
 いわゆる天地の法則である。その天地の法則を、教祖様は私共に見やすく、分かりやすく説いておられる。だからそういう法則にしたがって生活をする。そういう法則にしたがって、金儲けもよかろう、勉強もよかろう。そこの所を踏んまえずして、例えば金が貯まったり、学問が出来たりしたならば、それは丁度地形をつかんなり、家を建てるような物ではなかろうかとこう思うんです。実にそれはもろい物である。
 同時に本当な事人間万物の霊長としての、命を発揮するというか、それに相応しい生き方をする事のために、いよいよ、本当から本当の事を追求して行く。それを天地の真理とも言う。それを真とも言う。いわゆる真を追求している。ですから、私はそこに本当の、助かりの道すがらとでも申しましょうかね。私共が本当に助かる事のためにはです、霊長としての、人間は万物の霊長としての値打ちの発揮出来れる所。そこに大天地を、大神霊とも、また呼ばれる。
 私共人間の事を小神霊とも呼ばれる。いわゆる大神霊と小神霊との交流がなされる。神様と人間氏子との交流が始まる。それは神様のやはりお心である、真という物を追求していかなければいけない。私共が真になる時に神様に通うのである。もう大神霊と小神霊が一つになる。もう言うならば二つであって一つだからこそ、神様としての働きを現わす事ができる。そう言う様な尊いものを私共は持って生まれておるだけれども、人間のただ我慢我力、ただ我情我欲のために、それがその色が失せてしまう様なもの。
 信心とはそこにまず気付かせてもらう。根本的な助かりというのはそういうところ。それこそ、霊光を輝す事が出来る。信心というのは私は本当に、人間が万物の霊長としての自覚に立って、その霊長としての値打ちをだんだん供えて行き、それを発揮する事に生きがいを感じる事が、信心生活だと思う。そういう例えば完璧という事は、なかなか出来んにしましても、そういう物であると承知して、そしてそこに精進して行く。いわゆる難儀からの解放である。
 天地の中には人間の幸せになって行く、もう全てのものが、埋蔵されておるようなもの。それを真という鍵と真という心、真という物で堀り出して行く。真という鍵でそれを開いていく。そこに難儀がない苦労がない。そういう願いを持っての信心ですね。それを私共は、日々の体験から一歩一歩、真の人としての成長をとげていく事になるのであります。だからいわゆる真のおかげ、真のおかげ、言わば神様が下さろうとしておるおかげが受けられる訳であります。
 そういうような心の状態。こらほんなら私自身の事を思うてみましても、段々私はそういうおかげを受けて来たとこう思っておるね、自分自身が助かってきた。そしたら私の周囲に、助かる人が段々出来て来た。それは私が霊長としての自覚に立ち、その霊長としての値打ちを発揮する事が出来る事を楽しみに、いうなら人が助かる事さえ出来ればという事と同時に人の難儀が自分の難儀として、感じられるように段々なって来た。
 そこに私のこれからのいよいよ助かりも、そこに成長をみて行くだろうと思う。現在助かっておる状態から、もっともっと、広く大きく助かっていくことであろう。そこからもっともっと、広く大きいおかげの世界が展開して来るであろう。限りない進展を見て行く訳ですね。けれども限りなくおかげの受けていけれるという自信がつく程しの、いわば根本の所は、今日只今申しますように、霊長としての自覚に立って、霊長としての働きを発揮出来得る所に信心の焦点を置き。
 それを楽しみに信心させて頂く、そう言う様な物がです、私の何時の時代にそういう根本的なものが出来たであろうか、揃わったであろうかとこう思う。まぁ考えて見ると随分の難儀な事であった。その時分の難儀が人にも迷惑かける程しであった。もうそれは、まぁ口で言い現わす事の出来ないほどの、やはり難儀であった。その難儀をです、私が有難く頂こうとする姿勢を作った所から始まったように思う。
 神様がまぁだ私が、何も分からない時分に、石炭を御三宝一台、神様の方へ向けずに、私の方へ向けて、こう下さったお知らせを頂いた時にです。その時は分からなかったけれども、後から考えて見ると、ははぁそういうおかげの時代に、それを私はある意味で、まあ見事に受けていっておった。私共がああやってお供えをするように、神様が私共の方へ向けてお供をして下さる。
 それはピラミット型に積んである、真っ黒い石炭であった。それが真っ黒であった。真の苦労であった。それは真の修行であった。苦労は修行である、と頂くのが信心者の受け方じゃなからなければならん。どうして何時まっでん、こげん苦労が続くじゃろうかではなくて、その苦労を修行として受ける。それを合掌して受ける。それを神様からの私に対するお供えとして有り難く受ける。そういう受け方をしておる時にです、私は100節にありますように。
 「めでためでたの若松様よ」と言う様なおかげになって来たように思う。それがどういう風に言うかというとならその、真っ黒い石炭のような物にです、いよいよ信心の熱情がかけられた。それが、石炭が燃え盛って来た。そこから水なら湯になり、米ならままになるというようなおかげになって来た。金光大神はそういう道を教えられてある。みざとの事じゃないです。めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂ると言うではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと。
 自分一代じゃない子に孫に、そういう信心の徳が残って行く程しの道を教えて下さる。その道とは、人間が万物の霊長としての自覚に立ち、霊長としての値打ちを発揮出来る所までの働きである。そういう働きが何時の時代にこれは私の場合、出来たかと言うと。それこそ難儀から難儀、泣き面に蜂と言ったような、この99節である。九十九節とは九に九が重なると書いてある。九にプラスの九である。だからそういう本当に今が、苦労の真ん中じゃろうかと思う様な時にです。
 あぁあとため息の出るような信心じゃ、だからつまらん。それに熱情をもう一つかける所に、百のおかげになって来るのです。ところが九十九の所で、何時まぁっでん、グルグルグルグル、堂々巡りをしておる。神様の苦労を、私に対するお供だとして頂ききらん。問題が起きて来ると、その問題を向うに押しやろうとする。例えば、問題を有り難く受けるという熱情が、信心には必要なのである。そのに、九十九プラスの一と言う事になる。だから百節になる。百と言う事は、成就するという意味だと思う。
 九十から一遍に百になる訳にはいかん。九十五から一遍に九十五、百という訳にはいかんの。95、96、97、98、99。もう愈々汲々という所である。それこそまぁ後から振り返って見ると、ようもあそこが、通り抜けられたもんだという時である。その九十九に熱という一つがかけられる時に、めでたく百と言う事になる。成就すると言う事になる。それは、私共の願いの成就ではなくて、同時に神様の願いでもある。
 神の願いと氏子の願いが一時に成就する。そこに、めでためでたの若松さまよ、と言うだけではなくて、それが、家繁盛子孫の繁盛までつながって行くほどしのもの。成る程、ですから、無学でも、いうなら、お金が無くても、そういう信心、いや、むしろ、無学の者の方が力が入れやすい。お金の無い時の方が力が入れやすい、という事になるのですよ。学問が出来ると、どうしても学問が鼻にかかる。
 俺は誰よりも頭が良いから、もうそれが神の機感にかなわんから、学問はしておっても、難儀をしておる者があると言う事になるのです。お金があるから、真の真理も分からなければ、法則も覚えようともしない。そして、人間の道に外れた、霊長としての値打ちのない生活をして、金はあっても、学問はあっても難儀をしておる。それを信心が中途半端で、例えば、そこん所がなると言うならばです。
 自分は信心しとるからと安心しておるようであって、それはまだまだ本当の安心ではない。信心を、言わば、表にしておるような所はなかろうかと、私共が反省させてもらって、いよいよ、霊長としての値打ちを発揮出来れる信心。同時に、その生活が大事にさらなければならない。勿論生活とは、本当な事を追求して行く事と同時に、道理に合うた、万物の霊長としての、万物を見て道理に合う信心をさせて頂いての生活でなからなければならん。そこに、神様の願いがあるのです。
 だから私共の願いも、そこに置かなければならん、そこに願いと願いが一つになる。大神霊と小神霊が一つになる。そこから言うならば、形は人間の面でもありゃ、人間の状態ですけれども。あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃという所にまで、進展して行く事が出来る。金光大神の道は、いわゆる総信奉者がです、総生神金光大神を目指して、進んで行くと言うことが、御道の信心だと言うことになるのです。
   どうぞ。